言葉にならない美しい瞬間が訪れる!シューベルト交響曲第7番「未完成」

刻々と表情を変える転調の素晴らしさ

かつて「未完成交響曲」はベートーヴェンの第5「運命」とカップリングという形でLPがよく発売されていたものでした。

1960年、70年代当時「運命」と「未完成」はクラシック音楽を二分する不滅のスタンダードナンバーだったのです。

神秘のヴェールに覆われたイメージが強い「未完成交響曲」ですが、オリジナル楽器全盛時代の現在、そのイメージや扱われかたも随分と変わってきました。

もちろん、ベートーヴェンの第5や第3のように息を飲むような緊密な構成ではありませんし、マーラーやブルックナーの交響曲のように大作でもありません。

しかし「未完成」は今もなお交響曲において特別な位置にある音楽です。この曲からは大作を書こうとか、芸術作品を創ろうとか、そういう気負いが微塵も感じられないのです。

頭で考えて、しっかりと綿密な構成と配分を考えたとしても、このような作品はよほどのことがない限り、創れなかっただろうと思います。

シューベルトが特別な思いや感情に突き上げられ、心の泉が溢れるように即興的に書かれた作品こそが永遠の傑作「未完成」なのです。

泉のように湧く音楽―第1楽章

第1楽章は淡くはかない夢幻的な雰囲気のメロディで開始されます。夢が浮かんでは消え、そして突如として舞い降りるメロディの痛切で豊潤な美しさはとてもこの世のものとは思えません。

特に展開部の劇的で刻一刻と表情を変える転調の素晴らしさは何度耳にしても飽きることがありません。

自身の「ザ・グレート」と呼ばれる交響曲第8番に比べると構成力ではかなわないかもしれませんが、神秘的で孤高の魂が終始訴えかける美しい旋律は断然「未完成」なのです。

 

しがらみからの解放ー第2楽章

第2楽章はさまざまなしがらみから解放された純粋無垢な心が光ります。

ここはシューベルトの叙情性と透明な詩情が最高に発揮された素晴らしい楽章ですね!ひたすら生きていることへの感謝や諦観が切々と美しく書き綴られていきます。

よく大病をして奇跡的にそれが回復したり、経過が良かったりすると、人は健康体のありがたさや生きていることへの感謝の想いを強く実感するといいます。

そして回復後、改めて眺める日常の光景や見慣れたはずの自然の情景が美しく輝いて見えたりするものです。

でも…、それはなぜなのでしょうか?きっとあらゆる心のわだかまりが消えて、ひきずるものがなくなり、心が楽になるからなのでしょう。

この楽章はちょうど病み上がりの澄んだ身体とそれを拒まず、ありのままに包みこんでくれる自然の姿に良く似ています。

この作品が2楽章までしか作られなかったことに対してはさまざまな説があります。

私が思うには、世にも美しい2つの楽章を受けるには相当に神々しく解脱した音楽でもなければ冗談のようになってしまうかもしれません……。

だからあえて置かなかったのでしょう。交響曲は是が非でも3楽章以上なくてはならないという決まりはどこにもないのですから……。

仮に「ザ・グレート」のような終楽章になったとしたら、それこそおさまりが悪く曲の魅力も半減したに違いありません(もちろん決して「ザ・グレート」が駄作だというわけではありませんので悪しからず)。

 

オススメ演奏

ブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィル

シューベルト : 交響曲第5番&第8番「未完成」

 

Amazon Music -Bruno Walter

 

演奏は半世紀以上が経ちましたが、やはりブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィル(CBS盤)が圧倒的な名演奏です。

1958年の録音ですが、音質は素晴らしく、現代のデジタル録音と比べてもあまり遜色ありません。 ワルターの指揮は世紀の名演奏といっても良いほどで、ここには「未完成」のエッセンスがすべて詰まっているといっても過言ではないでしょう…。

神秘的な雰囲気の曲だからといって決して神経質にならず、心から溢れるメロディを歌い抜き、随所で深く立体的な響きを創り上げるあたりはさすがです。

ワルターはこの曲を愛するあまり、気心の知れたコロンビア交響曲楽団ではなく、ニューヨークフィルを起用したのですが、その効果は絶大でした。

テンポといい、響きの素晴らしさ、格調の高さ、融通無碍で溢れる歌心等、どれをとっても最高なのです。

 

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