ヘンデル・オラトリオの入門編として最高!
ヘンデルは生前20数曲のオラトリオを書いたといわれています。オペラも含めればその3倍以上にもなるのでしょうが、これは大変な数です。
そこで誰もが悩んでしまうのが一体どの作品から聴いたらいいのかということですよね……。
一般的には知名度が最も高く、録音や公演数も圧倒的に多い「メサイア」から聴き始めるというのが暗黙の了解のようになっているところがあるかもしれません。
でも、それは確かにそうでしょう!
「メサイア」は何度聴いても新鮮で、あらゆる部分に音楽が泉のようにあふれています。ヘンデルのオラトリオとしてはちょっと異質の祈りと希望、癒やしに終始彩られた作品なのです。
劇場を中心にオペラの作曲と上演を続けてきたヘンデルにとって「メサイア」は畑違いの作品だったのですが、逆に初めて教会で演奏が認められた記念すべき作品だったのです。
生き生きとした感情表現
「メサイア」は公演の大成功によって、それまでオペラとオラトリオを半々の割合で作ってきたヘンデルにとって、ようやくオラトリオのみに専念するきっかけとなった文字通り決定的な岐路となった作品だったのです。
この「メサイア」の美しい宗教音楽的な要素とオペラ的な要素をミックスブレンドして、聴きやすくしたオラトリオが1718年に作曲された「エステル」です。
作曲年代からもご承知のように、当時ヘンデルはオペラを精力的に作曲していた時でした。エステルはヘンデルが本格的にオラトリオを作曲し始めた記念碑的な作品なのです。
ここには後年の「サウル」や「サムソン」、「ソロモン」、「イエフタ」のような鋼のように硬質でスケールの大きい造型の萌芽が既に花開いているのです。
ヘンデルのオラトリオを聴くたびに思うのですが、彼の音楽には暗い影や情念がありません。
少なくとも宗教曲やオラトリオと謳われた音楽で、ヘンデルの作品ほど輝かしく透明感があって、心が奮い立たされるものはないといえるでしょう。
それも雲一つない澄み切った青空を想わせるし、曲全体の見通しの良さが抜群なのです。
またヘンデルオラトリオの魅力の一つ(無論オペラもそうですが)に、登場人物の性格描写が実に見事に磨き上げられている事があげられます。
たとえばハモンの傍若無人な悪人ぶりを品位を決して下げることなく、充分に雄弁かつ高い完成度で仕上げるところに作曲家としての大変な力量を感じるのです……。
登場人物
あらすじ
モルデカイは両親を失くした若い従妹のエステルを娘として引き取り育てていた。
ある日ペルシア王は美しいエステルを王妃として選ぶ。ユダヤ人だったモルデカイはユダヤ人共々、エステルがペルシャの女王に選ばれたことへの希望を抱く。
ところがある日、ペルシャの大臣ハマンはモルデカイが自分に敬礼することを拒否したために激怒する。 怒ったハマンは国内のユダヤ人を皆殺しにするという勅令を伝えたのだった。喜んでいたユダヤ人はその知らせを聞いて大いに嘆く。
モルデカイに助けを求められたエステルは、すべてのユダヤ人のために決死の覚悟をして、自分がユダヤ人であることを王に打ち明けることを決めたのだった。
王にエステルは自分がモルデカイによって育てられ、かつて王の命を助けた恩人であったことも伝える。そしてユダヤ人を抹殺する勅令がモルデカイを恨むハマンによって仕組まれたものであることを暴露する。
王はこれを受けてハマンを処刑、モルデカイは高官に引き上げられた。最後は、ユダヤ人の喜びの合唱で幕を閉じる。
聴きどころ
「エステル」は旧約聖書「エステル記」を題材にしたオラトリオです。
アン王女はこの作品にオペラのように振付をつけて劇場で演奏することを切望しましたが、当時カトリックは聖書の物語を劇場で上演することを認めなかったようです。
ヘンデルは1732年に新たに12曲を追加して、3幕からなる演奏会形式のオラトリオとして新しい版(HWV 50b)を発表します。HWV 50bは劇場で初演された後も、何度も上演され、結果的に大成功を収めたのでした。
ドラマチックな要素以上に純音楽としての美しさには光るものがあり、心惹かれるアリアも満載です。ハマンの心の闇の表現などは彼のオペラを彷彿とさせますね。
序曲
合唱「イスラエルの神よ…」
ハマンが年齢、性別関係なくイスラエル民族を皆殺しにするという勅令を出し、それを聞いて嘆き悲しむ合唱。
アリア「主を賛美します」
エステルが天上ヘ引き上げられるような晴れやかで純粋な心の喜びを歌う。
アリア「あなたへの愛が留まるところ」
国王アライヘスがエステルに固い愛の誓いを伝えるアリア。軽快で溌剌としたメロディに希望が漂う。
アリア「もうお前の邪悪な声は聞こえない!」
ハマンの残酷な策略を終わらせようとするエステルの強い決心と潔さがみなぎるアリア。
終曲「主がわれらの苦悩を退けられた」
フィナーレを飾るにふさわしいユダヤの民衆の喜びを謳う合唱。中間部でモルデカイやエステルのアリア、二重唱も交えながら、颯爽と前進していく様子は爽快だ。
オススメ演奏
ハリー・クリストファーズ指揮シックスティーン、アージェンタ、チャンス、パドモア他
理想的なオーケストラの響きや合唱のハーモニーなどを追求して、配置や空間にも細心に至るまでこだわった名演奏です。
もちろん演奏も素晴らしく、ヘンデルオラトリオのイメージを一新するような魅力にあふれています。
ヘンデルといえば、とかく重厚で鈍重な響きになりやすい傾向がありますが、この演奏にはそれがありません。
全編に渡り、みずみずしい響きや透明感が際立っていて心癒やされます。センスあふれるシックティーンの合唱やアージェンタ、チャンス、パドモアらのソリストの魅力いっぱいです。
メリハリのあるドラマ展開やキリっとしたシャープなリズミカルな響きが生き生きとした音楽劇を創りあげているのも事実です。
ジョン・バット指揮ダニーデンコンソート、ハミルトン、マルロイ、ブルッフ他
クリストファーズ盤、ホグウッド盤が物足らないと感じる方にはバット盤がオススメです。
バット盤は1720年にキャノンズに滞在していたヘンデルが同地で演奏するために使われた最初の改訂稿による録音です。
キメが細かく心の内を再現する合唱も見事ですが、悪役ハモンを演じるブルッフをはじめとするソリストたちの歌も心を捉えて離しません。
そして何より通り一辺倒ではない、作品の真髄に迫ろうとするバットのエネルギッシュな作品の掘り下げ方も大いに聴きものです。
ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団、カークビー、トーマス、エリオット
Handel: Esther, HWV 50 / Scene 6 – “The Lord our enemy has slain”
デジタル録音初期の演奏です。
録音こそ古くなりましたが、ヘンデルのオラトリオの魅力を後世に伝えてくれたホグウッドの功績は、今さらながら途轍もなく大きかったことを感じます。
カークビーの澄み切った歌声やホグウッドのスッキリとした造型、温もりのある響きが印象に残ります。
そのホグウッドのオラトリオの傑作選ともいうべきセットCDがこれです。古楽演奏の道を切り開いた「メサイア」、隠れた傑作を世に知らしめた「アタリア」など、4つのオラトリオを網羅した記念碑としての価値も高いといえるでしょう。