こだわり抜いた超絶的な名演奏
ピアニストが自分の好きな作品を、自分の好みの表現で徹底的に極めていけたとしたら、これほどピアニスト冥利に尽きることはないでしょう。
それを実現した演奏があります。
グレン・グールドが1955年と1981年に録音したバッハの「ゴルトベルク変奏曲」です。
グレン・グールドがセンセーショナルなデビューをはたしたのがバッハの「ゴルトベルク変奏曲」でした。奇しくも最期のレコーディングとなったのも、同じ「ゴルトベルク変奏曲」だったのです。
グールドはバッハのクラヴィーア曲(ピアノ曲)との相性がすこぶる良かったのは言うまでもありません。
平均律クラヴィーア曲集、ゴルトベルク変奏曲、イギリス組曲、フランス組曲、インヴェンションとシンフォニアなど、どれもこれもグールドの個性全開ながら、他のピアニストとまったく違うスタイルの名演奏を成し遂げたのです。
中でも「ゴルトベルク変奏曲」の、たった今生み出されたような新鮮で斬新な音楽は今後も語り継がれていくことでしょう。
バッハの音楽を再創造したグールド
グールドは「ゴルトベルク変奏曲」に特別な想い入れがありました。自分が作った曲のように自在にテンポを動かしたり、音型を分解して再構成したり、伴奏部分を浮き立たせる演奏スタイルからもそれははっきりと確認できます。
いわゆる「バッハの正統的な演奏かな」と思って聴くと大いに肩透かしを食らうことでしょう。
もっともこのようなバッハの名演奏の陰には編集のマジックが功を奏している部分も少なくありません。
グールドは何テイクも録音するのはあたりまえで、その中で自分が気にいった部分をつなぐということも平然とやっていたのです。1964年で一切のライブ演奏を停止したのも、何となくうなずけなくもないですね……。
しかし、それを差し引いたとしてもバッハ演奏の素晴らしさは色褪せないでしょう。
様々な噂を遥かに超える驚きと発見がグールドのゴルトベルクにはあるのです。それぞれの変奏曲の彫りの深さと完成度はどうでしょう……。
この録音を聴いていると同じ調子で弾かれた変奏曲はひとつもなく、全編に生き生きとした閃きがあり、彼の感性が冴え渡っているのが分かります。
もうこれ以上突き詰められないのではという次元にまで到達しているのが分かりますね。
一番驚くのが、第一変奏曲アリアの異常な遅さ(特に新盤)です。まるで独り言を呟くように意味ありげに始まるこのアリア……。
さすらいの旅へ足を踏み出し始めた旅人のような寂寥感や孤高な雰囲気さえ漂います。
二つの天才的な演奏
各変奏曲の滑らかなピアノのタッチや水晶のようにクリアな音色、それはそれは美しく見事としか言いようがありません。
新旧両盤の違いをあげるとしたら、新盤はよりゆったりしたテンポで弾ききっています。精神的な深さと造型の大きさは比類がありません。それと音質(1955年盤はモノーラル)ですね。
55年盤は全体的にテンポが早く、比較的オーソドックスなスタイルに近いのですが、それはあくまでも新盤に比べての話です。
一筆書きのように複雑な旋律を一気呵成に弾く盤石なテクニックや独特の解釈の深さが印象的です。
バッハの作品や演奏は固苦しいし、理屈っぽくて嫌だという方は是非一度グールドのゴルトベルク変奏曲を聴いてほしいと思います。
バッハの作品や演奏に対する認識が一変するかもしれません。
バロック音楽のスタイルに一切とらわれずに、自由に自分の表現を貫いていることに驚くことでしょうし、何より音楽そのものを計り知れない高みに押し上げていることにも驚くでしょう。