1960年ローマオリンピック|アベベらが刻んだ感動と人間ドラマ【オリンピック物語】

1960年にイタリアのローマで開催された第17回オリンピックは、アベベ・ビキラやウィルマ・ルドルフ、リビオ・ベルッティ、カシアス・クレイらが活躍した、記憶に残る大会です。

その一方で、世界では冷戦やアフリカ諸国の独立が進み、戦後イタリアも大きく変わろうとしていました。
さらにローマでは、現在のパラリンピックにつながる国際大会も開催されています。

この記事では、1960年ローマオリンピックを「時代背景」「名選手」「人間ドラマ」から振り返り、この大会が残したものを探ります。

オリンピック物語
世界を変えた感動と人間ドラマ

オリンピックは記録やメダル
だけでは語り尽くせません。
このシリーズでは、歴代大会を
「人間ドラマ」「時代背景」「名場面」
という視点から振り返り、大会が
残した意味を探っていきます。

目次

1960年ローマオリンピックとは?大会概要・基本情報

1960年ローマオリンピックの基本情報

項目内容
大会名第17回オリンピック競技大会
開催地ローマ(イタリア)
開催期間1960年8月25日~9月11日
参加国83か国
参加選手5,338人(男子4,727人・女子611人)
競技17競技
種目数150種目
開会式会場スタディオ・オリンピコ
開会宣言ジョヴァンニ・グロンキ大統領(イタリア)
選手宣誓アドルフォ・コンソリーニ(陸上競技)
最終聖火ランナージャンカルロ・ペリス
前回大会1956年メルボルンオリンピック
次回大会1964年東京オリンピック

大会は8月25日から9月11日まで開催され、83か国から5,338人の選手が参加。17競技・150種目が実施されました。

なぜローマでオリンピックが開催されたのか?

L'apertura delle XVII Olimpiadi di Roma, 1960 | The opening of the XVII Olympic Games in Rome, 1960
ローマ大会開会式のようす

ローマでオリンピックが初めて開催されたのは、1960年のことでした。実は、それより52年前の1908年にも、ローマは開催地に決まっていました。

しかし1906年にイタリア・ナポリ近郊のヴェスヴィオ山が大規模な噴火を起こし、降灰などにより約300人が死亡する被害が出たのです。

この噴火災害によるイタリア経済への大きな打撃から、イタリア国内の復興が優先され、開催を返上したのです。

その後、半世紀以上を経て、ようやくローマでオリンピックの開催が実現しました。

そのため1960年大会は、スポーツ大会というだけではなく、古代オリンピックを思わせる歴史都市ローマで、近代オリンピックが開かれた大会という意味でも印象に残る大会となったのです。

古代ローマの歴史的建造物が競技の舞台に

ローマ大会では古代ローマの歴史的な建造物が
競技会場として使用された

ローマ大会の大きな特徴の一つが、古代ローマの歴史的な建造物が競技会場として使われたことです。

たとえば、体操はカラカラ浴場、レスリングはマクセンティウスのバシリカ、マラソンは古代ローマ街道として知られるアッピア街道を通るコースで行われました。マラソンのゴール地点はコンスタンティヌスの門と、ローマならではの壮大なロケーションが大きな話題となったのです。


第一章
ローマ大会
が開催された背景

ローマ大会開催の背景と国内事情

かつてナチスとともに敗戦したイタリアの国際社会への完全復帰

実は、ローマは1908年大会の開催地に一度決まりながら、ヴェスヴィオ火山の大噴火の影響で断念した過去がありました。

さらに1940年大会も目指したものの第二次世界大戦で立ち消えに。戦後、民主主義国家として生まれ変わったイタリアにとって、1960年大会の招致成功は「国際社会へ平和的に完全復帰した証」でした。

奇跡の経済復興のアピール

1957年に発売されたフィアット・500
(イタリアの経済成長の象徴とされる)
1962 Fiat 500 photographed in Washington, D.C., USA.

1950年代後半、イタリアは「イル・ミラコロ・エコノミコ(奇跡の経済成長)」と呼ばれる急激な発展を遂げました。

ローマ大会では、古代の歴史遺産と現代の近代建築を融合させた会場づくりを進め、「新しいイタリア」の高度な都市開発と技術力を世界に見せつける絶好の機会となったのです。

イタリア奇跡の経済成長(イル・ミラコロ・エコノミコ)
🇮🇹 イタリアの実質GDP成長率の推移(1950〜1970年)
「イル・ミラコロ・エコノミコ(奇跡の経済成長)」の軌跡

🚀 平均5.8%の高速成長

1951〜1963年にかけて年平均5.8%のGDP成長率を記録。工業生産が急速に拡大しました。

🛵 モータリゼーションの到来

スクーターの「ヴェスパ」や国民車「フィアット500」が大ヒットし、生活様式が一変しました。

🏟 ローマ五輪(1960年)

経済成長率8.1%を記録した最高潮の年に開催。高速道路(太陽の道路)建設などインフラ整備が加速。

当時の世相とオリンピックへの影響

​① 米ソ冷戦の激化(東西対立の代理戦争)

​当時はアメリカを中心とする資本主義陣営と、ソ連(ソビエト連邦)を中心とする共産主義陣営が激しく対立していた冷戦期です。

国家の威信をかけたメダル獲得競争
メダル獲得数は既にシステム(体制)の優位性を示す戦いと化しており、米ソが激しい首位争いを繰り広げました(メダル総数はソ連が1位、アメリカが2位)。

U-2型アメリカ偵察機撃墜事件
大会直前の1960年5月には「U-2型アメリカ偵察機撃墜事件」が発生し、米ソ緊張が極限に達した状態で開幕を迎えました。

​② 脱植民地化とアフリカの年

​1960年は、アフリカの17カ国が相次いで独立を果たした「アフリカの年」でした。

アベベの金メダル
​この政治的・社会的な潮流を象徴したのが、男子マラソンで金メダルを獲得したエチオピアのアベベ・ビキラ選手です。

世界に大きな希望を与える
ヨーロッパの植民地支配から抜け出しつつあったアフリカから「初の黒人金メダリスト」が誕生したことは、世界中の人々に大きな希望を与えました。

​③ 複雑な政治問題(台湾と東西ドイツ)

台湾(中華民国)の抗議
国際オリンピック委員会(IOC)の決定により「台湾(Formosa)」名義での参加を余儀なくされた中華民国代表チームは、開会式で「UNDER PROTEST(抗議中)」と書かれたプラカードを掲げて行進し、大きな波紋を呼びました。

東西ドイツの統一チーム
東西に分断されていたドイツですが、この大会では政治的対立を乗り越え東西統一チーム(ドイツ統一代表)として一つの旗のもとに参加しました。

第二章
ヒーロー・ヒロインたち

ローマオリンピックを彩ったヒーロー・ヒロインたち

1960年ローマオリンピックには、後のスポーツ史に名を残す選手たちが集まりました。

裸足でマラソンを走ったアベベ・ビキラ、3冠を達成したウィルマ・ルドルフ、開催国イタリアを沸かせたリビオ・ベルッティ。

そして、後にモハメド・アリとして世界的なスターとなるカシアス・クレイも、この大会で初めてオリンピックの金メダルを手にしています。

さらに、体操ではソ連のボリス・シャフリンが7個のメダルを獲得。日本選手団も体操男子団体などで活躍しました。ローマ大会は、まさに多彩なスターが誕生した大会だったのです。

アベベ・ビキラ|裸足で走ったローマの英雄

Abebe Bikila Wins Marathon Gold Running Barefoot - Rome 1960 Olympics
アベベ・ビキラ、裸足でマラソン金メダルを獲得
(1960年ローマオリンピック)

1960年ローマ大会を象徴する人物として、まず挙げたいのがエチオピアのアベベ・ビキラです。

マラソンに出場したアベベは、古代ローマの歴史を感じさせるアッピア街道を含むコースを走り、なんと裸足で優勝。しかもオリンピック新記録を樹立しました。

当時、まだ世界的には無名に近かったアベベの勝利は、大会を象徴する出来事となりました。
ローマという古代文明の舞台を、裸足で駆け抜けるアベベ。その姿は、1960年大会の映像として現在まで語り継がれています。

ウィルマ・ルドルフ|3つの金メダルに輝いた「黒いガゼル」

もう一人、ローマ大会を代表するヒロインが、アメリカの陸上選手ウィルマ・ルドルフです。
ルドルフは100m、200m、4×100mリレーの3種目で金メダルを獲得。ローマ大会で一躍、世界的なスターとなりました。

その華麗な走りから「黒いガゼル」と呼ばれたルドルフは、ローマ大会におけるテレビ時代の新しいスターの一人でもありました。

ローマ大会は、オリンピック競技がテレビを通じて世界中の家庭へ届けられるようになった時代の転換点でもあります。ルドルフの躍動感あふれる走りは、まさにその時代を象徴するものでした。

リビオ・ベルッティ|イタリア中を熱狂させた200m王者

開催国イタリアのヒーローとなったのが、陸上男子200mのリビオ・ベルッティです。
ベルッティは200mで20秒5の世界記録タイを記録して金メダルを獲得。イタリア人選手として大会の大きな注目を集めました。

イタリア国内では、ローマの街で生まれた英雄として大きな人気を集めました。
アベベが「世界から注目されたローマ大会の象徴」だとすれば、ベルッティは開催国イタリアに歓喜をもたらしたヒーローだったといえるでしょう。

カシアス・クレイ|後のモハメド・アリがつかんだ最初の金メダル

後にモハメド・アリとして世界的なボクサーとなるカシアス・クレイも、このローマ大会に出場していました。

クレイはライトヘビー級で金メダルを獲得。当時18歳だった若きボクサーは、まだ「モハメド・アリ」と名乗る前でした。

ローマでの金メダルは、後に世界のスポーツ史に大きな足跡を残す人物の最初のオリンピック金メダルとなったのです。

ボリス・シャフリン|7個のメダルを獲得した体操の王者

ローマ大会で圧倒的な成績を残した選手として忘れてはならないのが、ソ連の体操選手ボリス・シャフリンです。
シャフリンは、金メダル4個、銀メダル2個、銅メダル1個、合計7個のメダルを獲得しました。1960年大会の個人最多メダル獲得者となった選手です。

日本の体操陣|ローマから東京へつながる活躍

ローマ大会では、日本の体操男子団体が金メダルを獲得。さらに小野喬が鉄棒と跳馬で金メダル、個人総合で銀メダルを獲得するなど、体操で大きな成果を残しました。

日本はこの大会から4年後、1964年に東京オリンピックを迎えます。
その意味でもローマ大会は、日本の選手たちにとって東京オリンピックへ向かう重要な一歩となった大会として見ることができるでしょう。

第三章
歴史を変えた人間ドラマ

謙虚さが光る誇り高きランナー、アベベ・ビキラ

1960年ローマオリンピック男子マラソンで金メダルを獲得したアベベ・ビキラ選手(エチオピア)のレース展開は衝撃的でした。

何よりも「裸足で走って勝った」という事実以上に、自尊心の高さ、誠実さ、そして歴史的背景が生んだ深い感動に満ちていたのです。

​裸足を選んだ理由―「言い訳をしない」静かな自尊心

​実はアベベ選手が裸足で走った経緯には、理由がありました。

​彼はもともとエチオピアの補欠選手で、当初は走る予定がなく、大会直前に辞退者が出たため追加招集でローマへ渡航することになったのです。つまり世界的にはまったく無名でノーマークの選手でした。

しかも現地で支給されたシューズは彼の足には合わず、マメができて痛みを感じるほどになったのです。

​普通であれば「靴が合わなかった」とクレームを入れてもおかしくない状況です。しかし彼は文句を言うことも諦めることもなく、「それなら、普段から走り慣れた裸足で走ればいい」と密かに決心したのでした。

​古代ローマの石畳が続き、夜の冷気が漂う42.195kmの過酷なコースを、彼は黙々と、そして軽やかに駆け抜けました。「与えられた条件下で自分のベストを尽くす」という強い信念は、時代を超えて私たちの生き方にも通じる深い感銘を与えてくれます。

​ゴール直後の涼しげな表情と「伝説の一言」

Rome 1960 Olympic Marathon | Marathon Week

世界新記録(2時間15分16秒2)でゴールした瞬間、周囲の役員や報道陣は、裸足で走り切った彼が倒れ込むのではないかと心配しました。ところが、アベベ選手は涼しい顔で、ストレッチや軽い屈伸運動を始めて見せたのです。

​驚いた記者から「なぜ裸足で走ったのか?」「疲れていないのか?」と問われた際、彼は誇らしくこう答えました。

​我が国エチオピアが、常に不屈の精神と自尊心をもって生きていることを世界に知らしめるため、私は裸足で走ったのです。

​過度な自己主張をするのではなく、自国への誇りと感謝を静かに語るその姿は、一瞬で世界中の人々の心を掴んだのです。

​歴史の皮肉を平和の光に変えたゴールの瞬間

ローマに立っていた頃のアクスムのオベリスク
Wikimedia Commons∶The Rome Stele
(known also as the Aksum Obelisk)
in Aksum (Tigray Region, Ethiopia).

このエピソードが最も胸を打つのは、イタリアとエチオピアの歴史的関係にあります。

​ローマ大会のわずか20余年前(1935年〜)、イタリア(ファシズム政権下)はエチオピアに侵略し、首都アディスアベバから「アクスムのオベリスク(古代の記念碑)」を持ち去り、ローマの街頭に飾っていました。

​アベベ選手が男子マラソンでスパートをかけた地点は、まさにその奪われたオベリスクの前でした。そして、かつてローマ皇帝が遠征軍を見送った歴史的建造物「コンスタンティヌスの門」でトップゴールを果たしたのです。

​かつて支配された国の無名青年が、武器ではなくスポーツと己の足だけで、支配した国の首都で頂点に立つ――。復讐や憎しみではなく、スポーツを通じた平和と人間の尊厳の勝利として、この場面はオリンピック史上に残る最も美しく象徴的な瞬間となりました。

​「歩けない」と言われた少女が五輪3冠へ― ウィルマ・ルドルフ

ウィルマ・ルドルフ選手(1960年)
​画像出典:Wikimedia Commons
(File:Wilma Rudolph 1960.jpg) /
Nationaal Archief (CC BY-SA 3.0 NL)

ウィルマ・ルドルフ選手(アメリカ)の物語は、スポーツの枠を超えて「愛、強い意志、そして諦めない心がもたらす奇跡」を描いた、涙なしでは語れない感動のエピソードです。

​医師の宣告と家族の支え

​ウィルマは1940年、22人きょうだいの20番目として貧しい家庭に生まれました。未熟児として生まれつき身体が弱かった彼女は、4歳のときに小児麻痺(ポリオ)や猩紅熱(しょうこうねつ)を併発し、左足の自由を失ってしまいます。

​医師からは「この子が自分の足で自力で歩けるようになることは二度とない」と宣告されました。

​しかし、母親は決して諦めませんでした。毎週仕事の合間を縫って、バスで片道数時間かかる黒人専用の病院へウィルマを連れて通い続け、自宅ではきょうだいたち全員で交代しながら、毎日毎日ウィルマの脚をマッサージし続けました。

​「お医者様が無理と言っても、神様とあなたが諦めなければ歩けるようになる」という母の言葉を信じ、家族の温かい愛情に包まれながら、彼女は過酷なリハビリに耐え抜いたのです。

​矯正器具を外し、陸上界へ

Wilma Rudolph at Rome 1960 | Epic Olympic Moments

家族の奇跡的な愛と本人の努力が実を結び、9歳のときに足の金属製矯正器具を外し、12歳でついに自力で歩くことができるようになりました。

​歩けるようになったウィルマが真っ先に飛び込んだのは、身体を動かす喜びを味わえる中学のバスケットボール部でした。最初は補欠でしたが、持ち前の素早さで頭角を現し、やがて陸上競技のコーチの目に留まります。

​かつて「歩くことすら不可能」と言われた少女は、瞬く間に才能を開花させ、16歳で1956年メルボルンオリンピックに出場(4×100mリレーで銅メダル)。そして20歳で迎えた1960年ローマオリンピックでは、100m、200m、4×100mリレーの女子短距離3冠という快挙を達成しました。

​世界中のメディアは、しなやかで圧倒的な速さを誇る彼女を黒いガゼル(The Black Gazelle)と称賛しました。

​人種差別の壁を越えた帰郷

​ローマ大会で世界中を魅了し、一躍ヒーローとなって帰国したウィルマですが、当時のアメリカ南部はまだ激しい人種差別の渦中にありました。

​彼女の地元テネシー州クラークスビルでは、彼女の偉業を祝う「歓迎パレードと式典」が企画されましたが、当時は人種隔離政策(ジム・クロウ法)により、白人と黒人が同じ場所で集会を開くことは禁じられていました。

​これを知ったウィルマは、毅然とした態度でこう宣言しました。

​白人と黒人が一緒に参加できない記念式典なら、私は出席しません

​若干20歳の金メダリストが示した強い意志に動かされ、町は史上初めて「白人と黒人が共に参加する統合パレード・パーティー」を開催しました。彼女は足のハンディキャップだけでなく、社会に横たわる差別の壁をも、その高い誇りと笑顔で打ち破ったのです。

ウィルマ・ルドルフが残した言葉に、このような名言があります。

​「勝利があるから勝つのではない。敗北や困難を乗り越えて立ち上がった経験があるからこそ、人は勝者になれるのです」

​彼女の人生は、「与えられた試練がいかに重くても、愛と情熱があれば人はどこまででも高く飛べる」ということを教えてくれます。

傷ついた人々にスポーツを――パラリンピック誕生の原点

医師と患者たちの挑戦 ―「下半身不随は人生の終わりではない」

1968年にテルアビブで開催された夏季パラリンピックで、グットマン博士がトニー・サウスに金メダルを授与する様子
Australian Paralympian Tony South receives his gold medal for the Men’s Albion Round open event at the 1968 Paralympic Games in Tel Aviv from the founder of the Paralympic movement, Ludwig Guttmann. South scored a world record 800 points to win gold.
CC BY-SA 3.0

この大会の創始者である脳神経外科医ルートヴィヒ・グットマン博士は、第二次世界大戦で脊髄を損傷した兵士たちが「どうせ助からない」「社会の粗大ゴミ」と絶望的な扱いを受けている状況に強いショックを受けました。

​当時、脊髄損傷者の多くは数年以内に命を落とすのが当たり前とされていた時代です。グットマン博士は彼らにリハビリとして車椅子スポーツを取り入れ、こう励まし続けました。

​失われたものを数えるな。残されたものを最大限に活かせ

​博士の熱意に応えた選手たちは、車椅子バスケットボールやアーチェリーなどを通じて生きる希望を取り戻していきます。

そして「いつかオリンピックと同じ舞台で、世界中の車椅子アスリートが集う大会を開く」という博士と患者たちの長年の夢が、1960年のローマでついに結実したのです。

​ローマの街が包んだ熱狂と、兵士から「スポーツマン」への脱却

​開会式当日、ローマのスタジアムには23カ国から約400人の車椅子アスリートが集結しました。戦争によって身体に大きな傷を負った人々のリハビリから始まったスポーツが、やがて国境を越えた国際大会へと成長していったのです。

​かつて戦場でお互いに銃を向け合っていた若者たちが、同じ車椅子の仲間として、スポーツマンとして互いの健闘をたたえ合い、笑顔で握手を交わしました。

​大会を成功させるため、イタリア軍の兵士たちは自ら車椅子の選手たちを担いで階段を上り下りし、競技を全面的にサポートしました。

かつて傷つき絶望の淵にいた若者たちが、観客の大歓声の中で誇り高くメダルを胸にする姿は、国境や歴史の傷痕を越えた大きな感動を呼んだのです。

​日本人医師が見た車椅子の青年たちの自立とパラリンピックの未来

1964年東京パラリンピックにて
手前左から皇太子皇太子妃両殿下、 奥左から畑田和男医師、
中村裕日本選手団団長、グットマン博士
Empress Michiko and Crown Prince Akihito (left) meet representatives of the participating teams during the opening ceremony of the 1964 Tokyo Paralympic Games on Oda Field in Yoyogi Park, Tokyo. At the right of the picture is Ludwig Guttmann, the founder of the Paralympic movement.

このローマ大会には、のちに「日本パラリンピックの父」と呼ばれる中村裕(ゆたか)医師が視察に訪れていました。

​当時、日本の障害者福祉はまだ遅れており、部屋の奥で静かに暮らすのが一般的だったため、中村医師はローマで目撃した光景に言葉を失います。

​そこには、車椅子で元気に街へくり出し、ワインを酌み交わし、自分の人生を堂々と謳歌する欧米のアスリートたちの姿がありました。

中でも中村医師が強く心を動かされたのは、障害のある人たちが「治療を受ける患者」としてではなく、スポーツを楽しみ、社会の中で自立して生きる人として過ごしている姿だったのです。

大会終了後、ローマ教皇ヨハネ23世がグットマン博士謁見の際に贈った「あなたは障害者のための現代のクーベルタン(近代オリンピックの父)だ」という言葉とともに、中村医師はこの感動を日本へ持ち帰り、1964年東京パラリンピックの開催へと立ち上がることになったのでした。

まとめ

1960年ローマオリンピックは、アベベやウィルマ・ルドルフらの活躍だけでなく、冷戦やアフリカの独立など、激動する時代を映し出した大会でもありました。

そして、現在のパラリンピックにつながる国際大会がローマで開催されたことも、大きな意味を持っています。記録やメダルだけではなく、人々の生き方や社会の変化まで映し出したローマ大会。

その物語は、4年後の1964年東京オリンピックへと受け継がれていきます。

次回予告|1964年東京オリンピック
国立代々木競技場第一体育館
CC BY-SA 4.0

次回はいよいよ日本へ―。1964年東京オリンピック。戦後復興を遂げた日本で開かれた大会は、世界に何を伝えたのでしょうか。

東洋の魔女、円谷幸吉、アベベの再来日など、東京大会に刻まれた感動と人間ドラマを振り返ります。

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