母の死・埋め尽くせない喪失感…。
モーツァルトはピアノをとても愛していました。作曲や演奏の場ばかりでなく、いつもピアノに素直な感情をぶつけていたのです。
この作品はモーツァルトのピアノソナタの中でも特別な位置にある作品といっていいでしょう。
それは人を喜ばせたり楽しませるというよりも、自分の心に忠実に心の張り裂けるような想いを素直に音楽に託しているのです…。
イ短調ソナタは、モーツァルトが短調で書いたわずか2曲のピアノソナタのうちの1曲です。
モーツァルトはどれほど悲しいこと、不憫なことがあっても、また貧しさに苦しめられた時期でも、決して作品には出さず、努めて明るい曲調の作品を世に送り出してきました。
しかしピアノソナタK310だけはまったく違ったのです。
K310がこれほど悲痛なメロディに彩られているのは意味があります。
1777年から1778年にかけてモーツァルトと母のアンナ・マリアはモーツァルトの就職先を探すために、ヨーロッパ各地を同行していました。
思うように求職活動が進まない中、パリ滞在中に母親が病気をこじらせてしまいます。しかも病気は悪化するばかりで、とうとう7月に帰らぬ人となったのでした。
この母の死にモーツァルトは激しく心を揺さぶられます。モーツァルトがパリから父に宛てた手紙は、父を動揺させないようにとの気遣いで書かれたものがいくつかあります…。
この曲は1778年、母アンナがパリで亡くなった前後に作曲されたのでした。
高い次元で結晶化された響き
K310は有名な交響曲第40番ト短調のイメージをそのままピアノソナタに置き換えたような雰囲気がありますね……。
音楽はどこまでも抜けきっていて淀みがなく、孤高の悲しみとして結晶化されていることもそうです。
しかもピアノソナタという性格上、管弦楽曲や交響曲よりさらに自由な表現が可能で、デリカシーにあふれた表情が出やすいジャンルであることも間違いありません。
この作品もそうですが、モーツァルトの偉大なところはドラマチックな曲といえども決して感情に溺れることなく、高い次元で結晶化された響きや澄み切った表情を生み出しているところでしょう。
それがはっきりと確認できるのが第3楽章プレストかもしれません。
この第3楽章はいつ聴いても圧倒されます!
あっという間に駆け抜ける主題と一瞬の安らぎに満ちた中間部。
わずか4分ほどの音楽ですが、そこに込められたはかりしれない情報量と情感……。音楽がもたらす驚きや英知の響きのような佇まいが心に刻み込まれます!
聴きどころ
第1楽章:アレグロ・マエストーソ
悲劇的な主題がすぐさま開始され、哀しみと諦観、絶望が常に交互に現れては消える。
楽章は1つの主題のみからなり、やがて16分音符に変化し、左手の多声的な2部和声へと続いていく。
変化に富み充実したエピソードが無垢な魂の領域で次々と展開される。
第2楽章:アンダンテ・カンタービレ
凄い音楽だ。そして恐ろしい音楽でもある。ピアニストにとってその感情表現はかなり苦心するだろう。
音楽があまりに純粋無垢であるがために、かえって感情表現が難しい…。
出だしは穏やかで平静を装っているように見えるが、既にとめどもなくあふれる涙をどうすることもできないモーツァルトの姿が瞼に浮かんでくる。
吐息や諦観が絡み合いながらしみじみとした味わいを醸し出す。
中間部の激しい慟哭も忘れられない。
第3楽章:プレスト
フィナーレは豊かさにあふれ至高の輝きを放つ傑作だ。
一音ごとに様々な想いや感情が込められており、繊細で透明感に満ちた旋律が心を揺さぶる。
涙に濡れながら駆け抜けていくテーマ、たおやかな表情を保つメロディが忘れ難いニュアンスを残す。
そして中間部での天国的な優しさ……。
それは永遠の母性ともいえる安らぎが顔を覗かせる瞬間だ!
オススメ演奏
K310は演奏が難しく、CDの名演奏は現在のところかなり限られているように思います。その中ではディヌ・リパッティの最後の録音とリリー・クラウスのCBS盤が双璧でしょう。
ディヌ・リパッティ(1950年)
リパッティの演奏は1950年ブザンソン音楽祭でのライブ録音で彼の最後の録音です。
もちろんモノーラルで決して良好な録音状態ではありませんが、本質をしっかり捉えた演奏は今でも深い感動を与えてくれます。
何よりも飾らず外連味のない清廉な語り口がモーツァルトにはぴったりです。
リリー・クラウス(CBS盤)
クラウスの演奏はリパッティに比べると演奏の振り幅が大きく、この曲にモーツァルトが託した思いがどのようなものであったかが伝わってくるような演奏です。
特に第2楽章、第3楽章の深い感情移入と引き締まった表現は他のピアニストからはなかなか聴けません。
クラウスは1956年のEMI盤(モノーラル)もありますが、そちらも即興的で深い表情が印象的な素晴らしい名演奏です。