
父親、教育者としての愛の眼差し

バッハは大作曲家として名高い人ですが、作曲家の多くがそうであるように、彼も鍵盤楽器の演奏家としても超一流でした。
当然、鍵盤楽器のための作品は多く、平均律クラヴィーア曲集やゴルトベルク変奏曲といった有名曲以外にも数多くの名曲が存在します。イギリス組曲、フランス組曲、イタリア協奏曲、インヴェンションとシンフォニア、6つのパルティータはその代表格ですよね。
私は決してバッハのクラヴィーア曲を熱心に聴くほうではないでしょう。でも2曲だけ、疲れた時によく耳を傾ける癒やしの作品があります。それがパルティータ第5番とフランス組曲第6番なのです。
パルティータ第5番に聴くバッハの良さをひとことで言えば、自由で独創的、かつ無邪気で優しさに満ちあふれていることでしょう。しかも人生の本質に迫る響きが随所に現れ、素晴らしいとしか言いようがないのです。

シンプルな中に繊細な美しさ

バッハというと「厳格で理論的な作曲家」というイメージがあるかもしれませんが、このパルティータには遊び心や無邪気さが充満しています。
たとえば、第1曲プレアンブルム(Praeludium)は軽やかでリズミカルな音の跳躍が特徴的ですが、まるでバッハが楽しみながらアドリブで即興演奏しているかのように感じられますよね。
無伴奏ヴァイオリンソナタ&パルティータで厳しく突き放すような精神性の深みを表現したのとはかなり異質な世界です。
これはバッハの父親としての優しさ、教育者としての愛に満ちた眼差しが向けられているのかもしれませんね……。
中でも素晴らしいのは4曲目のサラバンドでしょう。主題にこれといった特徴こそありませんが、音楽が醸し出す翳りの濃い表情や、力の抜けきった旋律が深遠な世界を構築していきます。
主題が少しずつ形を変えて登場するたびに、様々な感情が交錯しながら音楽が昇華されていくさまが本当に見事です。
続く第5曲のテンポ・ディ・ミヌエッタの可愛らしい音の戯れが何と魅力的なこと! しかもその一音一音にどれほど豊かな愛に満ちたメッセージが込められているのでしょう……。
リズミカルで透明な詩情あふれるパスピエも、輝かしく晴れやかなフィナーレのジーグも魅力いっぱいです。

聴きどころ
サラバンド
全6曲中、最も音楽の密度や翳りが濃く、枯れた味わいで魅了するのがサラバンドだ。主題にこれといった特徴こそないが、力の抜けきった柔和な旋律が次第に深遠な世界を表出していく。
テンポ・ディ・ミヌエッタ
はるか彼方に心が引き上げられるような主題の魅力が素晴らしい! 無邪気な音の戯れも可愛らしく魅力的。しかもその一音一音に何と豊かな愛に満ちたメッセージが込められていることだろう……。
パスピエ
パスピエは17~18世紀にフランスで流行した、8分の3拍子または8分の6拍子のスピード感のある舞曲。このパスピエはリズミカルで透明な詩情あふれて胸がワクワクする。
ジーグ
17世紀バロック期の舞曲の一つ。 三拍子または複合二拍子のテンポの速い曲で、古典組曲などの最後に置かれた。
さまざまな声部が語りかけるように進行するようすは多彩な表情を音楽に与えつつ、陰影のドラマを展開していく。
オススメ演奏
この作品の演奏は当然、ピアノかチェンバロのどちらを選ぶかということになるのですが、私は音楽的な親しみやすさ、普遍的な美しさも含めて圧倒的にピアノをオススメめします。
雅やかで格調高いのはチェンバロかもしれませんが、音色、表現の幅や、繊細な感情表現が可能なのはピアノではないかと思いますので……。チェンバロファンの方、どうか悪しからず!
エリック・ハイドシェック(P)
さて、第一にお勧めしたいのはエリック・ハイドシェックのピアノによる演奏です。残念ながら現在廃盤で、配信サービスにもラインナップされていません。いつか復活する日を望んでここに挙げておきます。
パルティータ第5番は最初の3曲が後半の4曲に比べてやや魅力に乏しい嫌いがあるのですが、ハイドシェックの巧みな演奏はそのような欠点をも忘れさせてくれます。
まず第3曲のサラバンドの音が何と柔らかく美しいこと! 何気なく気分を変えて弾かれたテーマが無限の余韻と豊かなニュアンスを醸し出してくれます。
絶妙なピアノのタッチに加えて、センスあふれる造型やテンポ、リズムがこの曲をバロック音楽の枠や堅苦しさから解放しています。純粋にピアノ作品としての魅力を伝えてくれる演奏と言えるでしょう。
ショシャナ・テルナー(P)
2018年の録音。最近のバッハのピアノ演奏では最も優れたアルバムかもしれませんね。彼女はパルティータ全曲を録音していますが、全集としても充分に優れていてます。
まず何より造型が安定していることと、上っ面ではない感じきった音楽がピアノの端々から聴こえてくるため、ピアノの響きとともに呼吸ができるのが秀逸なのです!
ダイナミックレンジの広さ、音の粒立ちの美しさや気品など、いずれもバッハを聴く喜びでいっぱいに満たされていくでしょう。特にサラバンドの陰影に満ちた表情、ゆとりや絶妙な間合いは素晴らしいの一言!
リチャード・グード(P)
細部にこだわらず、一気に弾きあげるのがグードのピアノの魅力。このバッハも少しも奇をてらうことなく、正攻法で音楽を弾ききっています。
では音色の魅力が薄いのかというと、まったくそんなことはなく、フレーズからあふれる情感や立体的な音の輝き、迫力は抜群です。
それはちょうど彼がベートーヴェンのソナタを弾く延長戦上にあるといってもいいかもしれません。
テンポ・ディ・ミヌエッタやパスピエも、正攻法だからこそ浮かびあがる美しさ、楽しさが広がっていくのです。
クラウディオ・アラウ(P)
クラウディオ・アラウの録音(フィリップス)は晩年のアラウの心境がそのごとくに反映された名演です! 中でもサラバンドが絶品ですね…。
遅めのテンポから繰り広げられる木訥な音は明らかに流麗とか格調高いという言葉とは無縁ですが、テンポやリズム、造型などの音楽上の制約やスタイルが空しく感じられるほど、その表現は心の深奥に迫ってきます。
テンポ・ディ・ミヌエッタも飾らない表現だからこそ、よりストレートに感動が伝わってくるのかもしれません!