モーツァルトの魅力が全開!
モーツァルトはピアノとの相性が抜群でした。彼がピアノ曲を作曲するときは、まるで自分の内面を吐露するように自由で束縛がなかったのかもしれません……。
改めていうまでもありませんが、モーツァルトのピアノソナタやピアノ協奏曲の、そのほとんどすべてがキラキラと輝くような傑作揃いです。
そして私たちの心を捉えて離さない魅力作が目白押しなのです。中でもピアノ協奏曲第23番イ長調K488は、オペラ「フィガロの結婚」に代表されるように、創作が絶頂期にさしかかった頃(1786年)の作品です。
創作には苦痛や困難がつきものと言われます。
ベートーヴェンがルドルフ大公に献呈する目的で作曲した傑作「ミサ・ソレムニス」を発表するまでに、かれこれ約10年の期間を要しましたし、ブラームスが最初の交響曲を着想から発表まで約10年の歳月が費やしたといいます。
「モーツァルトは天才だから、何の苦もなくスイスイ音楽を作ってしまうんじゃない♪」とおっしゃる方もいるでしょう。でもとんでもないことです。
モーツァルトは人一倍デリケートで感性が豊かなために、それだけ多く傷つき苦しんできました。そしてK488が作曲された頃は経済的にも、作品の評価においても最悪の時代になりつつあったのでした。
しかし彼の音楽はそんなことを感じさせないくらい、屈託なく無垢で、優しく豊かで、あらゆる人たちの心に自然に溶け込んでいきます。
豊かな感性に彩られたK488はモーツァルトの最高傑作の一つと評価する方もいます。この曲は悲しみを忘れて自分らしくありたいと願う、悩める人たちへのモーツァルトの贈り物なのかもしれませんね……。
様式を超えたフレッシュな感性
K.488の魅力って一体何でしょうか?
まず第一に、ロココ時代の様式にまったくとらわれない、普遍的でフレッシュな感性や音楽性が挙げられるでしょう!
音楽そのものがまったく古びてないし、理屈っぽい匂いや擦れた感じもこれっぽっちもないのです。確かに形式的にはロココ時代の音楽スタイルを踏襲しているのかもしれません……。
でもそれが音楽に影響を与えるのかと言えば、まったくそんなことはありません。たった今音楽は生まれたかのように、250年という時を難なく越えてヴィヴィッドに私たちの心に響いてくるのです!
この作品は、穏やかな叙情が全編を覆っていて、音色の透明感、木管とピアノの絡みによるパステルカラーのような味わい、比類ない哀しみの表現など、様々なイマジネーションを与えてくれます。
しかも、いつ聴いてもたった今作品が生まれてきたかのような新鮮さに満ち満ちているのです。
聴きどころ
第1楽章 アレグロ
澄み切った青空にぽっかりと浮かぶ雲や、ゆるやかに流れる風……。
弦や木管楽器による序奏は心地よい晴天の一日を想わせます。ピアノは決して声高にならず、無邪気さの中にゆとりと気品を保ちながら、流れるような旋律を奏でていきます。
こんなに穏やかな笑みを湛えて進行する音楽はモーツァルトにも珍しいのではないでしょうか……。
第2楽章・アダージョ
あらゆるピアノ協奏曲、いや、あらゆる音楽の中でも最も美しいアダージョと言えるかもしれません。
冒頭ピアノのソロが、一音一音を噛みしめながら弾いていくと、深い哀しみに突然時が止まったかのように管弦楽に受け渡されると、世にも美しく澄み切った悲歌となります。
それはこの世に生を受け、生きるすべての存在の宿命的な哀しみを訴える嘆きであり、慟哭なのでしょうか……。
第3楽章・アレグロ・アッサイ
夢の世界を駆け巡るような、フレッシュで透明感に溢れた楽章です。
とにかく楽章すべてが閃きに満ち満ちています! 尽きることのないイマジネーション……。ロンド形式の多彩な調べが胸をワクワクさせますね!
音楽は足早に進行しますが、あらゆる部分が輝きを放ち、湧き上がる泉のようにとどまるところを知りません。
まさにモーツァルトらしい無邪気さと汲めども尽きない音楽の魅力が結集された音楽と言えるでしょう!
オススメ演奏
ハイドシェック(P)ヴァンデルノート指揮パリ音楽院管弦楽団
録音は古いのですが、ピアノ協奏曲第25番K.503と同様にエリック・ハイドシェックのピアノとアンドレ・ヴァンデルノート指揮、パリ音楽院管弦楽団の演奏が最高です。
この演奏の良さは既成概念にとらわれていないことでしょう。特に素晴らしいのは第3楽章アレグロ・アッサイです。
高速なテンポで即興演奏のように歌うハイドシェックのピアノは絶えず微笑みと愉悦、そして涙を伝えていて、まったく無味乾燥に陥りません。自由自在に音楽で遊びながら、こぼれ落ちるようなモーツァルトの魅力を余すところなく体現しているのです!
第1、第2楽章も素晴らしい出来ばえですね。取り立ててどこがいいという感じではありませんが、素直な音楽の流れが美しく、モーツァルトにはぴったりです。