クラシック音楽の未来はどうなる?技術だけでは届かない感動の本質

近年、クラシック音楽を聴いていて、かつて味わったような「胸を打つ感動」や「時間を忘れるほどの没入感」に出会う機会が減ってきたと感じることはないでしょうか。

ホールの音響は整い、演奏家の技術も非常に高い水準にあります。けれども、心が揺さぶられない。そんな現象は、実はクラシック音楽全体が抱える“深刻な危機”を象徴しているようにも思えます。

目次

テクニック至上主義がもたらす危機

今、クラシック音楽業界は大変な危機に直面していると感じます。

新たな楽曲の傑作が出てこないのはもちろんのこと、クラシック音楽業界を支えるべき演奏そのものの魅力が大きく低下していることが要因といえるでしょう。

演奏の魅力が低下したのは今に始まったことではありません。2、30年前でもそのような話題はささやかれていました。

顕著になってきたのはここ10年くらいと言っていいかもしれません。それは音楽ストリーミングサービスの開始やYouTubeの動画投稿が熱を帯びてきた頃とオーバーラップします。

もちろん生活の急速なハイテク化が、演奏のマンネリ化や画一化につながっているとは決して言えないでしょう。問題の本質はそんなことではありません。

音楽性もテクニックも優れているのに、淡白な表現をする人が何と多いことでしょうか……。聴き終わった後に印象に残らないのと、何を伝えたかったのがピンとこない演奏があまりにも多いのです。一度聴いただけで演奏に魅了されて、何度でも聴きたくなる演奏家はあまりにも少ないのです。

クラシック音楽が直面している「感動の喪失」は、単なる技術や音響の問題ではなく、「再創造」という本質が見失われていることに深く関係しているといえるでしょう。

音楽コンクールの意義について

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演奏家が本格的にデビューするシステムにも問題ありと唱える人も少なくありません。かねてから議論の的となってきた音楽コンクールのあり方もその一つでしょう。

音楽コンクールは、ピアニストやヴァイオリニストなどの演奏家にとって、自分をアピールする重要な舞台です。しかし、コンクールそのものの意義については大きく意見が分かれるところですね。

今後、これまでと同じようなスタイルでコンクールが継続されたとしても、おそらく頭打ち状態になるのは目に見えています……。

なぜならコンクールはソリストを育む手助けをするというより、どうやって本格的に売り出すかというターニングポイントでしかないからです。つまり芸術というよりはビジネス戦略の一つの手段になっていると言ったほうが適切かもしれません。

それはアーティスト個人もそうだし、販売戦略に乗せようとする大手レーベルや、関係団体、音楽事務所もそうでしょう。

ロシアの「チャイコフスキー国際コンクール」、ポーランドの「ショパン国際ピアノコンクール」、ベルギーの「エリザベート王妃国際音楽コンクール」などの三大コンクールをはじめとして、国際ピアノコンクールと呼ばれるものは年に100以上あると言われています。

毎年「国際コンクール優勝者や入賞者」がその数だけ生まれるということなのですが、それではクラシック音楽業界が活況を呈しているかというと、まったくそんなことはありません。

コンクールのメリット

コンクールが開催されるからには、少なからずメリットがあります。おもに次のような内容となるでしょう。

才能発掘とメジャー・デビューの道

仮にショパン国際ピアノコンクールで優勝や入賞をすれば、一流のホールで演奏する機会やマネージメント契約を得ることができるでしょう。

またメジャー・デビューのきっかけになるかもしれません。新しい才能が世界的に認知され、プロとしての道が開かれることは疑いのない事実です。

技術と表現力の向上

コンクールのためにテクニックを磨き、高度なプログラムを準備することで、演奏技術や表現力が培われることは間違いないでしょう。

また審査員や観客の前で演奏することで、本番での精神的な強さが養われるようになります。

音楽界への影響

若い世代の音楽家にとって目標となり、クラシック音楽の活性化に貢献できるかもしれません。

コンクールの演奏がメディアで取り上げられ、クラシック音楽の普及にもつながるでしょう。

コンクールのデメリット

昔からコンクールは、さまざまなデメリットを抱えていると言われています。具体的にどのようなものか、見てまいりましょう。

音楽が競争の手段になりがち

音楽は本来、芸術的な表現や感動を目的とするものですが、順位を競うことで「誰が一番うまいか」という視点に偏りやすい欠点があるのは間違いありません。

心に響く音楽よりも、ミスなく完璧な演奏をモットーとするアーティストや風潮が生まれやすいのは確かでしょう。

コンクール向きの演奏が好まれる

個性的な解釈よりも、無難で「減点の少ない」演奏が評価されがちです。つまり優等生的な演奏が好まれる傾向が高いということです。コンクールの入賞歴を重ねて、名前が記憶された者だけが音楽活動だけで生計を立てることができるといえるかもしれません。

その反面、自由で独創的なスタイルの演奏家が不利になる事例はよく見受けられます。

精神的・経済的負担が大きい

コンクールの準備には膨大な練習時間が必要で、精神的なプレッシャーが大きいことはよく知られています。

また、参加費用、渡航費、レッスン費用など、経済的な負担も大きく、経済的にゆとりのある人が有利になりやすいのは間違いありません。

一時的な成功が安定したキャリアに結びつくとは限らない

コンクール優勝者のすべてが成功するわけではありません。むしろマーケティングやマネージメント次第では忘れられてしまうことも充分あります。

複数のコンクールの入賞歴があることはもちろん、業界やメディアなどに幅広く名前を轟かせた者だけが音楽活動だけで生計を立てることができるのです。

一方で、コンクールに出なくとも、地道に努力を重ねて独自のルートで成功する演奏家も少なくありません。

審査の透明性と主観性

多くのコンクールでは、審査基準が明確に公開されていなかったり、評価方法が不明だったりすることがあります。クラシック音楽は「解釈」や「表現」によって評価が分かれるため、どうしても審査が主観的になりがちです。

結果が発表されたあとに、「なぜあの演奏者が入賞しなかったのか」とSNSなどで論争になることも少なくありません。

コンクール否定派のピアニスト

クラシック音楽コンクールに対して、否定的あるいは懐疑的な意見を持っていた(もしくは現在も持っている)演奏家や音楽家は少なくありません。以下にいくつか代表的な例を紹介します。

グレン・グールド(Glenn Gould)

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カナダの伝説的ピアニスト。誰も真似のできない斬新なアプローチと、寂寥感を漂わせた唯一無二の音楽は今でも多くのピアニストを魅了し続けています。

特に固定観念に囚われない生き生きとしたバッハ演奏は人類の財産と言ってもいいでしょう。

グールドは、音楽コンクールが「個性」や「創造性」よりも「模範的なテクニック」や「一般受けする演奏」を評価する傾向があると考えていました。彼は、音楽には多様な解釈があり、決まった正解など存在しないと信じていたため、同じ基準で演奏を順位づけすることに違和感を抱いていたのです。

優勝者は誰よりも“審査員の趣味”に合っていたというだけだ

グールドは王立音楽院で学んでいた頃から、既に模範的な音楽教育に懐疑的でした。授業をさぼったり、教師の指導方針に反発したりすることも多かったといいます。

あるエピソードでは、彼がバッハを独自の解釈で演奏したところ、教師が「もっと伝統的なスタイルで演奏しなさい」と注意し、それに対して彼は「では、あなたがその伝統を信じている理由を音楽的に説明してください」と言い返したと伝えられています。

Teaching often interferes with learning.(教えることはしばしば、学ぶことの妨げになる。)

この名言は教育全般に向けられたものですが、音楽教育にも当てはまります。グールドは、型にはまった教育が創造性を奪うと信じていました。彼は、演奏家が教師の模倣ではなく、自分自身の音楽観を確立すべきだと考えていたのです。

サンソン・フランソワ(Samson François)

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ショパンやドビュッシー、ラヴェルなどの研ぎ澄まされた名演であまりにも有名なフランスの天才ピアニスト。彼の演奏は非常に即興的で、リサイタルでは毎回異なる表情を見せて観客を陶酔させてくれました。

彼は1943年のロン=ティボー国際コンクールで優勝していますが、それが必ずしも自分にとって素直に喜べなかったことが、後年の言動からもうかがえます。

フランソワは、いわゆる「音楽学校的」「アカデミック」な演奏に嫌悪感を抱いていました。コンクールが求めるのは、あらかじめ用意された型通りの解釈や演奏であり、芸術の本質的な創造性や個性が押しつぶされるのではないかと危惧していたようです。

私は“完成された作品”などには興味がない。それより、“いま生まれた音”を追いかけたい。

コンクールのような場では、安定性や再現性、完璧な正確さが重視されるため、その場のひらめきや感情を重視する彼のスタイルとは相容れなかったとも言えるでしょう。

マルタ・アルゲリッチ(Martha Argerich)

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彼女もコンクール優勝者でありながら、「才能のある人が埋もれてしまう」「審査員の主観で才能が否定されてしまう」ことを懸念し、基本的には懐疑的、あるいは批判的な立場をとっています。

1980年のショパン国際ピアノコンクールでは、イーヴォ・ポゴレリチが予選で落選した際、審査員だったアルゲリッチが激怒。審査員を辞退したのは有名な話です。「才能ある人が傷ついて音楽をやめるのを見るのが耐えられない」とも語っています。

ただし、「コンクールの本当の意義は、人との出会いや音楽を互いに共有すること」とも語っており、順位や勝敗ではなく、場が持つ可能性には一定の理解を示しています。

自らが主催する「マルタ・アルゲリッチ国際ピアノ・コンクール」では、形式にとらわれず、才能を見出す場として活用されれば価値があると考えているようですね。

フリードリヒ・グルダ(Friedrich Gulda)

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「反逆のピアニスト」とも呼ばれるオーストリアのピアニスト。グルダは、音楽コンクールが「技術的な正確さ」や「スタイルの完成度」にポイントを置きすぎ、演奏者の個性や芸術的表現が軽視されやすいことに強い難色を示していました。

彼にとって音楽とは「魂の自由な表現」であって、審査員に迎合するためのものではなかったのです。

グルダは何度も有名音楽コンクールの審査員として招かれましたが、ことごとく断っています。しかも、断るだけではなく、音楽界の制度的側面そのものも批判しました。

音楽に順位をつけるなど、ばかげた行為だ。芸術は競技ではない。創造的な自由を奪ってしまう

コンクールの形式主義を厳しく批判し、「音楽に順位はない」というスタンスは生涯変わりませんでした。彼はクラシック音楽の教育や制度のあり方も形式的だと批判的だったようです。

中でもコンクールは「その最たるもの」と捉えていたようです。グルダの型にはまらない即興演奏やジャズへの傾倒などは、その想いの表れだったのでしょう。

内田光子(Mitsuko Uchida)

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内田光子はコンクールからキャリアをスタートさせた世界的なピアニストです。しかし近年では、コンクールにおける「安全策でまとめた演奏」が評価されがちな傾向を懸念する一人です。

コンクール入賞などで、成功パターンのレールを歩んできた若い才能を、音楽業界がビジネスチャンスとばかりに売り出すことで、彼らが十分な経験や成長を育む機会を奪っていると指摘しています。

その結果、若手音楽家が限られたレパートリーを繰り返し演奏するだけになり、音楽的な深みや表現力を十分に発展させることができなくなると懸念しています。

音楽の真の深さや探究心を持つ演奏が評価されにくい風潮がある」といった内容の発言もして話題となりました。

コンクールが社会的な意義を持つためには

クラシック音楽コンクールが今後も広く支持され、社会的意義を保ち続けるためには、以下のような視点や改革が求められるでしょう。

審査の透明性と多様性の確保

公正な審査がなされているかという疑問は、これまで幾度となくコンクールへの不信感を生み出してきました。審査基準を明確にし、審査員の選抜や評価方法の透明化が求められるでしょう。

同時に、特定の派閥や文化圏に偏らない、多様性を反映する審査員の構成も重要です。多様な音楽的背景を持つ人々が関わることで、より多くの人にとって「意味あるコンクール」となるのは間違いありません。

結果だけでなくプロセスに焦点を当てる

コンクールはしばしば「勝ち負け」だけが強調されがちですが、それでは参加者の音楽的成長を促したり、隠れた才能の発掘にはつながりません。

マスタークラス(公開授業)や公開講評、ドキュメンタリーの配信などを通じて、コンクールを「成長する場」として提供することで価値を高めることが望まれます。

時代に合った発信と観客とのつながり

若い世代や音楽ファンに届くようなSNS活用やストリーミング配信、インタビューや舞台裏の公開など、時代に即した広報戦略は不可欠でしょう。

音楽そのものだけでなく、演奏者の人間性や葛藤のドラマを伝えることで、観客との情緒的なつながりが生まれやすくなります。

評価の多様化:1位だけが価値ではない

音楽は本来「比較して優劣をつけるもの」ではありません。仮に順位をつけるにしても、参加者が納得できるような説明や演奏家へのサポートは必要でしょう。

ユニークな表現や個性的な演奏を正当に評価し、それぞれの個性が活かされるような特別賞やオーディエンス賞の導入なども、コンクールの支持を広げるきっかけになるかもしれません。

精神的・身体的健康を守る仕組み

若手演奏家が過度なプレッシャーで燃え尽きてしまう問題もあります。コンクールに出続ける中で、期待すべき結果が得られなかったり、評価が得られなかった場合はその後の演奏活動に大きな支障をきたすことも少なくありません。

過度な競争や評価主義からの脱却が願われると同時に、参加者の心身を守るサポート体制も求められるでしょう。

クラシック音楽の未来を築くために

クラシック音楽の未来を築くためには、今こそ音楽の原点に立ち返るときを迎えているのかもしれません。それでは今後クラシック業界を活性化するにはいったい何が必要なのでしょうか?

技術はあっても感動がない?

クラシック音楽界には、素晴らしいテクニックを持つ演奏家が数多く存在します。完璧なピッチ、驚異的な速さ、緻密にコントロールされた音色。どれも見事です。しかし、そこで立ち止まってはいけないはずです。

「また聴きたい」と思える演奏、「この一音に魂を込めた」と感じさせる演奏が、かつてより少なくなったのはなぜでしょう……。

それは、演奏が単に「再現」の領域にとどまっているからではないでしょうか。作曲家の意図や心を深く読み取り、現代の聴衆に新たな意味を持って届けようとする“再創造”の姿勢が、どこかで希薄になっているのかもしれません。

 クラシック音楽は“再創造芸術”である

クラシック音楽は、楽譜という形で「設計図」が残されている芸術です。しかしその設計図を音として蘇らせるとき、演奏家には創造者としての責任と自由が求められます。

作曲家の時代背景、人生、作品に込めた思いを汲み取り、それを今この瞬間の音楽として“再構築”すること――それこそがクラシック音楽の真髄です。

つまり、クラシック音楽は「再現」ではなく、「再創造」なのです。

録音技術が発達した今、完璧な演奏はいつでも手に入ります。しかし、“生きた音楽”に触れられるかどうかは別問題ですね。それは演奏家の内面からにじみ出る感性や覚悟にかかっているからです。

聴く側・演奏する側の意識改革へ

もちろん、演奏家だけに責任があるわけではありません。私たち聴き手もまた、音楽を“受け取る力”を育てる必要があります。

ただ美しい音を聴くだけでなく、作曲家や演奏家のメッセージに心を傾け、「なぜこの表現なのか」「この一瞬に何が込められているのか」と問いながら聴くことが、音楽とのより深い出会いにつながります。

演奏家と聴衆がともに再創造の担い手となるとき、クラシック音楽は再び、力強く現代を生きる芸術となるでしょう。

おわりに:今こそ心に響く音楽を

クラシック音楽が本来持っていた「魂に触れる力」。それを取り戻すには、再創造の精神を取り戻すことが不可欠です。

ただ上手に演奏するのではなく、作曲家の思いを、自分なりに解釈し、今この時代に届け直す。そこには演奏家の人生、問い、表現者としての覚悟が必要です。

音楽が再び「感動の芸術」であり続けるために――今こそ、演奏家と聴衆がともに“再創造”の道を歩み始めるときなのかもしれません。

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