自分の視点が鑑賞を深める
一般的にクラシック音楽は大作曲家が残した作品や、その演奏を聴いて楽しむことですね。
受け身だと思われがちな音楽鑑賞ですが、場合によっては聴き手が創造の過程に加わっているような感覚を味わえることもあります。
たとえばモーツァルトの有名なセレナーデ「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を聴いたとしましょう。そして、それが流麗でリズミカルな演奏だったとします。
そのとき、「スッキリしすぎてるな」とか、「どこか物足りないな…」という感覚が芽生えたとしても、ちっとも不思議ではありません。
「自分だったら、この部分はこういう風に表現したい…」、「もうちょっとアグレッシブにしたい…」とか
そのように感じることはクラシック音楽を愛聴する上ではむしろ当然だし、歓迎すべきことといえるでしょう!
むしろ、そういう傾向が強まれば強まるほど、あなたはクラシック通への階段を着実に上がっているのです。
このように「演奏を聴く」だけでなく、「演奏を聴く+アルファ」が、あなたの感性の扉を開くきっかけにもなるし、作品の本質を聴くことに一歩踏み込んだといえるでしょう。
鑑賞だけではなく、自分の中で作品やその演奏に対する持論を持つことは再創造的な作業が実行された瞬間であるといっても過言ではありません。
それだけでなく、そのようなファンこそがクラシック音楽を確実に育てているといってもいいでしょう。
王道がないクラシック音楽の入口
クラシック音楽の聴き方は「これが正しい」というルールや解答は一切ありません。
同じ曲を聴いたとしても、感じる世界は人によってまったく違います。
個性やその人が育った環境、人生経験等によって当然のように心に響くポイントが変わってくるのです。
世の中には音楽評論家というお仕事がありますね。
その方々が推薦する、CDの名盤はたくさんあります。
けれども、プロが評価する名演奏が自分にとっていい演奏なのかといえば、そうとも限りません。
まずは出来るだけ多くの生演奏やCDを聴いて、自分の心や身体に音楽を自然に染みこませるのもいいでしょう。
そうすることで自分にとって相性のいい音楽、入りやすいジャンルが見つかるかもしれません。
心の音楽と思える作品や演奏家が見つかったときの喜びはたとえようがなく、それは終生の心の財産になり得る可能性もあるのです。
教養としての日本の音楽教育
クラシック音楽は決して難しくはありません。
ましてや教養や学問でもありません!
しかし、日本では現在もクラシック音楽を教養としてとらえる傾向があります。
これはクラシック音楽だけに限ったことではありません。
ファンとして、それはある意味とても残念で、寂しいことですね……。
かつて、小学校や中学校の音楽室にはバッハやモーツァルト、ショパン、ベートーヴェン、シューベルト……という感じで、大作曲家の肖像画が張り出されてましたよね。
肖像画にまったく罪はないのですが……、貼られているとただでさえ難しいイメージのあったクラシック音楽がますます難しく感じられ、敷居が高く感じたのも事実です。
それはいいのですが、日本の音楽教育の現場ではいまだに音楽の楽しさに眼を開かせてくれる教育がなされていません。
私も、クラシック音楽の本当の面白さや聴く喜びを教えてくれる先生や授業にはついに出会えませんでした。ちょっと残念です。
でも、私はこれまでクラシック音楽を教養として聴いたことは一度もありません。おそらく教養として聴いていれば絶対に好きにはならなかったでしょう。
あくまでも自分の気持ちを高め、癒やし、心の財産になりうるので聴いているのです。
クラシック音楽の醍醐味
クラシック音楽の面白さはこんなところにもあります。
たとえば、同じ曲を聴いても、演奏家や指揮者が変わるだけで全然別の音楽に聴こえることがあります。
同じ曲を違う人が演奏したり、指揮することで、その人にふさわしい音楽、芸術が生まれるところが凄いのです。
一人一人の個性、感性や芸術観、多様な表現によって、オリジナリティあふれるメッセージが生まれるところが、芸術の醍醐味なのです。
本当は日本でも、もっともっとクラシック音楽の良さ、楽しさを実感できるようなイベントが頻繁にあれば、どんなに素晴らしいことでしょうか!
今後は日本のクラシック音楽界やそれをとりまく団体にも大いに頑張っていただきたいものです。