「やり始めたことは、最後までやり遂げなさい」 「中途半端で投げ出すのは、一番良くないことだ」
子供の頃からそう教わり、それが心に焼きついて離れないという人もいるのではないでしょうか?しかし、大人になった今も「完璧に終わらせること」に縛られてはいませんか。
仕事のプロジェクト、趣味の習い事、あるいは日々のルーティン。 「ちゃんと完結させなきゃ」というプレッシャーが、いつしか「苦しみ」に変わり、動けなくなってしまう……。
皆さんは、そんな経験が大なり小なりあるかもしれませんね。
もし、あなたがご自分の「中途半端さ」を責めてしまいそうになったら、クラシック音楽のある名曲を思い出してください。 フランツ・シューベルトの交響曲第7番(または第8番)、通称『未完成』です。
なぜ未完成の曲が最高傑作なのか

クラシック音楽において、交響曲というのは通常「4つの楽章」で構成されるのがお決まりです。 「起承転結」のようなもので、第1楽章から始まり、フィナーレの第4楽章で華々しく終わる。これが完成の定義でした。
しかし、シューベルトの『未完成交響曲』は、第2楽章までしかありません。
第3楽章のスケッチは残されていますが、彼はそれを完成させることなく、その後6年間も生きながら、結局この曲を放置(あるいは放棄)しました。
1.Allegro moderato Wiener Philharmoniker,
Conducted by Carlos Kleiber
普通に考えれば、「欠陥品」です。 しかし、この曲はベートーヴェンの交響曲第5番『運命』と並ぶほど世界中で愛され、音楽史上もっとも美しい交響曲の一つと称えられています。
なぜ「未完成」なのに、最高傑作なのか。 それは、泉のようにあふれ出るインスピレーションや、メロディの稀有の美しさなどで、「第2楽章までで、すべてにおいて表現し尽くされているから」と多くの音楽関係者が語っています。

描き切らないという高度な選択

上手く活用するという考え方が常識

本当に伝えたいことを伝えられる
デザインの世界ではホワイトスペース(余白)という概念があります。
紙面を情報で埋め尽くすのではなく、あえて「何もない空間」を作ることで、本当に伝えたいことを際立たせる手法です。
シューベルトの『未完成』も、これに似ています。 第1楽章の神秘的で美しい旋律、そして第2楽章の天国的な安らぎ。
この2つの楽章があまりに純度が高く、完璧な世界観を持っていたため、彼は「これ以上、音を足すことは野暮だ」と本能的に悟ったのかもしれません。
もし、無理やり慣習や形式に従って第3、第4楽章をつけ足していたら? おそらく、あの神秘的な美しさは損なわれ、ただの「形式的に整った普通の曲」になっていたでしょう。
彼は「形式的な完成」よりも、「作品としての芸術的真実」を選んだのです。 それは「あえて終わらせない」という、積極的な意思表示だったのかもしれません。
2.Andante con moto Wiener Philharmoniker,
Conducted by Carlos Kleiber

生活にも「未完成の美」を取り入れる

私たちはつい、物事に「ピリオド(完了)」を打ちたがります。
ToDoリストをすべてチェックして、メールをすべて返信し、物語の結末を知りたがる。もちろん、それは目的があってやることですから仕方がありませんよね。
しかし、完璧主義が行き過ぎると、息が詰まります。 完璧にできないなら、やらないほうがマシと、最初の一歩が踏み出せなくなることもあります。
シューベルトは教えてくれます。「すべてを語り尽くさなくてもいい。一番美しいところで止めてもいいんだ」と。
- 8割の出来でも、そこに情熱がこもっていれば世に出していい。
- 読みかけの本があっても、その数ページで心が動いたなら、それで十分。
- 夢半ばで諦めた道があっても、その経験は「未完成交響曲」のように、あなたの人生に深みを与えている。

その「中途半端」を愛そう
「未完成」であることの最大の魅力は、「続きを想像する余地」が残されていることです。
聴衆は、存在しない第3楽章をイメージし、その空白に自分の想いを重ねます。 だからこそ、この曲は聴く人の心に深く、個人的な体験として刻まれるのです。
もし今、あなたが何かを「中途半端」にしてしまっていると悩んでいるなら、少し視点を変えてみてください。 それは「挫折」ではなく、シューベルト的な「美しい中断」なのかもしれません。
完璧なフィナーレだけが人生じゃない。 未完成のまま、問いかけのまま漂う美しさが、そこには確かにあるのです。










