ミサ曲の常識はうち破られた!
日本ではさほどではありませんが、西洋音楽の歴史をひもとくと、カトリックをはじめとして数多くのミサ曲が作られてきました。
しかし、ミサ曲は数多くあれどもベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」ほど、一般的に思い浮かべる宗教的な雰囲気からかけ離れた作品はないでしょう。
「ミサ」といえばカトリックの典礼の一環として行われる大切な行事の一つですが、これをはじめて聴く方は「本当にミサ曲なのか!」と驚かれるに違いありません。
ここでは通常のミサ曲のイメージとはおよそ結びつかない劇的な音楽スタイルが採られているし、終始ベートーヴェンの不敵なまでの自信と確信が聴く者に強烈な印象を植えつけるのです。
芸術性を優先して、わりあい自由な形式で作られているバッハのミサ曲ロ短調でさえ、
ミサ曲というよりは劇的なストーリー展開が持ち味のドラマティック・オラトリオという雰囲気さえ漂います。
ベートーヴェンという人は、宗教、
でも作品は空前絶後といっていいほど感動的です!
全編を通じて音楽に強い求心力があリますし、合唱、管弦楽などのあらゆる要素がストイックに絡み合い、音楽の大洪水となって押し寄せてくるのです!
キリスト教的な典礼や宗教音楽が苦手な方にとっても、その音楽の凄さは何度か耳にすれば何となくお分かりいただけることでしょう。
作品誕生の背景
どちらかというと作曲の筆が早かったベートーヴェンですが、この作品では何と4年以上の歳月を費やしています。
作品に対する気概がどれほどのものだったのかということが伝わってくるようですね…。
彼にはよき理解者がいました。
それがルドルフ大公で、音楽への愛情と造詣が深い人だったのです。 彼はベートーヴェンから作曲とピアノの手ほどきを受けていて、実際に作品も残しています。
しかも、パトロンとして生涯にわたりベートーヴェンの芸術を理解し、支持していたのでした。
そもそも「ミサ・ソレムニス」は、1819年にルドルフ大公が大司教に就任するのをお祝いするために作曲されたのでした。しかし、幸か不幸か作曲を進めていく中で構想はどんどん大きく膨らんでいってしまったのです……。
もちろんベートーヴェンの性格上、妥協したり、自分の気持ちを誤魔化して作品の発表をすることは絶対にできません。
結局、大司教の就任式には間に合わず、作品が発表されたのはそれから4年後のことだったのでした。
ルドルフ大公がこのことをどのように受けとめたのかは知る由もありませんが、複雑な心境だったのは間違いないでしょうね……。
ただ一つ言えるのは、ベートーヴェンが「ミサ・ソレムニス」に抱く想いは並大抵のものではなかったということです。
作曲をする上で、古今のありとあらゆるミサ曲やオラトリオ、声楽曲をくまなく研究したようですね。
特にヘンデル作品の雄大で骨太な迫力に刺激を受け、バッハやパレストリーナの端正で気品あふれる音楽にも感化されたようです。
その他、さまざまな中世ルネッサンス、バロックの作曲家を徹底的に研究し尽くしたのですが、全知全能の神への賛辞、ヒューマニズムな人類愛を高らかに謳いあげた作品は今なお「ミサ・ソレムニス」だけかもしれません。
何もかも型破りで桁外れの作品
第一曲のキリエが始まると冒頭から天空を揺るがし、
些細なことにはビクともしない、ドッシリとして安定した音楽の軸の強さも印象的です。
「ミサ・ソレムニス」の合唱は他の作品のそれとは大きな違いがあります。それは声のバランスや発声の美しさは大して求められていないことです!(もちろんハーモニーが美しいのに越したことはありませんがね…)
合唱はあくまでも民衆の高揚した想いや意思の力として表現されていて、曲が進む中でそれは巨大なエネルギーとなり、魂のカタルシスを呼び起こしていきます。
しかも、絶えず音楽には温かな共感や豊かな包容力があふれていて、何ともいえない安心感で満たされます。
グロリアの自由奔放でキリッと引き締まった主題も見事です! 天国の階段を噛みしめるように上っていくグロリア最後のフーガの気高さ!
目立った主題はないものの、重厚で深い世界が辺りを覆うクレド。
感傷におぼれることなく、痛切な嘆きを訴えるアニュス・デイのアダージョ。
霧が晴れたように自由への喜びと感謝の想いが高らかに歌われるアニュス・デイ、最後のプレスト。
最初から最後まで、心の告白や自由への祈りを真摯に伝えようとする音楽への想いは、やがて神への賛歌として昇華されていくのです!
演奏の難しい作品
「ミサ・ソレムニス」には、今なお20世紀の名演奏が厳然と輝きを放っています。
それがオットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団&合唱団(ワーナーミュージック)の録音です。
この録音を超える演奏はいまだに現れていません。作品の特徴として、とにかく音楽の集中力を切らさないことが大変だし、何より演奏が難しいのです。
作品の本質をガッチリと掴んで離さないクレンペラーの統率力も大したものですが、それについていくソリストや合唱、オケも見事です!
一般的に声楽曲であれば、合唱はパートごとにバランスを取り、いかに美しい響きを生み出すかに注力します。
しかしこの作品では、それはむしろ邪道になってしまうのです。
そもそも音楽自体が美しい響きやバランスを要求していないのです。
クレンペラーはそのことを熟知しているようで、合唱の響きは力強く、緊張や有機的な響きが途切れることがありません。
ただクレンペラー盤もすでに50年以上前の録音だけに、年を重ねるたびに音が色褪せて聴こえるようにも感じます。
作品が人類の財産レベルの大傑作のため、早く新時代のの名演奏・名録音が出てきてほしいところですね!