肖像画の認識が変わる絵画 アングル『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』

アカデミックな絵の典型?

アングル『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』1845年 132×92㎝ ニューヨーク・フリックコレクション
19世紀フランスの画家ドミニク・アングル(1780-1867)は人が羨むようなデッサンの達人でした。
しかし彼は卓越したテクニックと画力の持ち主であったけれども、決して技術に溺れるような人ではなかったのです。
もちろんデッサンの技術を最大限に生かすけれども、必要であればいくらでも形を崩したり、表現の可能性を採り入れる等、進取の気性に富んだ画家だったのです。
この『ドーソンヴィル伯爵夫人の肖像』も、一見アカデミックな絵の典型のように見えます。しかし単にアカデミックな絵画の典型と括ってしまっていいものなのでしょうか?
その点については大いに疑問を感じるところがあるので、他の画家の肖像画を参考にしながら考えてみますね。

他の画家との比較

エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン

他の画家がどのような肖像画を描いたのか、ここでは比較的時代が近い18世紀フランスロココ絵画の画家たちの絵を見ていきたいと思います。

ルブラン『自画像』1790年

まずは、女流画家として後世に名を残したルブランから。

絵からも伝わってくると思いますが、彼女は上品で清楚な美しさが際立つ人だったようですね。この自画像も澄んだ目の美しさや穏やかで優しげな表情が印象的です。

そして透明感のある肌色、手入れされた髪やドレスのフリル、いたるところに女性ならではの感性やデリカシーが生きていて、観る者を幸せな気分にしてくれるのです。

肖像画としては素晴らしい出来ばえで、もはやこれ以上何も求めることはできないでしょう。

素晴らしい肖像画であることは間違いありません。でも一言許されるならば、上品で美しく魅了される絵なのですが、肖像画以上でもなく肖像画以下でもないのです……。

フランソワ・ブーシェ

『ポンパドゥール夫人』1756年、212×164cm、油彩、ミュンヘン、アルテピナコテーク

 

次にブーシェの『ポンパドゥール夫人の肖像』と比べてみましょう。

ブーシェの『ポンパドゥール夫人の肖像』も美しい絵ですね……。誰が見たとしても、夫人の匂い立つような気品や優雅さが伝わるに違いありませんし、ただただうっとりするしかないでしょう。
そして美しさを強調するために、あらゆる意味で理想の女性像を具現化したような絵のシチュエーションは耽美的でさえあります。
艶やかさや、美しさに特化しているために、女性の内面の描写、置かれている状況などの表現は控えめになっていることは確かのようです。
もしずっと長い間この絵を部屋に飾ったとしたら飽きないのだろうかといえば、それはまた別問題ということになるでしょうね…。

2枚の絵との比較から

たった2枚の絵と比較して、どうこうとは言うのはちょっと気が引けますが、あえて無理を承知で書かせていただきますね……。
絵とは見るときの気分や状況、あるいは見る目的によって見え方が少なからず変わってくるものです。
また、引き出しが多く、様々なテーマや目的を持って描かれた絵は一度見るとなぜか気になるし、よく見ると様々な発見があるものなのです。
まさにアングルの絵がそれで、気の利いたショートストーリーやドラマを見るのと同じようなわくわくする趣きがあります。
見る人の気持ちを鼓舞し、知的好奇心を満足させてくれる何かがあるのです!
美しい肖像画なのか、それとも肖像画を超えた絵としての味わい、魅力、面白さがあるか……ということなのです。
つまり見て美しい肖像画と芸術的な肖像画とは少々別物ということになるでしょう。
関連記事

  [caption id="attachment_5529" align="aligncenter" width="1024"] 「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」ジャック=ルイ・ダヴィッド●1805–0[…]

デフォルメの達人

これら二枚の美しい絵に比べるとアングルの絵は「体感温度の低さが気になる」と仰る方も少なくないでしょう。
感覚的な魅力、親しみやすさでは一歩譲るかもしれませんが、絵としての熟成度や強烈な印象を残す存在感では前二者を大きく凌駕しているのです。
極端に言えば、アングルは伯爵夫人の生き生きとした表情や雰囲気、仕草にはそれほど関心を向けてはいません。
むしろ冷たいくらいに人間的な感情や情緒の表現を拒絶したかのようにも思えます。
しかし、この絵はよく見るとアングル一流の冴えた技が至る所に隠されているのです。

鉄壁の構図

特に周到に練られているのは構図でしょう。
上の図で示してあるとおり、画面を縦横に三分割する構図と、センターに拡がる三角形の構図がまず目を惹きます。これら2つは鉄壁の安定の構図と言われており、スッキリとして静謐な感じが漂うのはそのためなのです。
それだけではありません。首をかしげ、左肘の下に右手を置き、顎の下を指でちょこんと押さえる夫人のポーズは柔らかなS字型ポーズになっていますね!
これは静けさが漂う絵の中で、ひときわ夫人の表情に目がひきつけられる伏線となっており、アングルのしたたかさを感じるのです。しかも古典的な洋式美に彩られ強い存在感を放っているのです。

研ぎ澄まされた色彩

熟考され、芸術的な香りを漂わせる色彩の配置も見事です! 
彩度をできるだけ抑えた室内の空間は静寂感に漲り、また比較的彩度を抑えたドレスは格調高い雰囲気を醸し出しています
そして、このずば抜けた色彩の温度感覚や彩度の対比の的確さは夫人の頭の赤いシュシュを強烈に印象づける効果をも生み出しているのです。

全体を見渡すと、彩度をできるだけ抑えた色調はしっとりと絵に馴染み、人物を引き立てていることが伝わってくるでしょう。

巧みな視線の誘導

鉄壁の構図と熟考された色彩……。
その確かな技法のツボに支えられて、この絵は無理なく人物に視点が定まるように巧妙な仕掛けがなされているのです。
伯爵夫人のこちらをジッと見つめる強い視線と、神秘的な表情に引き込まれるように感じるのはアングルの綿密な計算のゆえなのです。
鏡に映った夫人の後ろ姿や、彩度を抑えた色調、悩ましげなポーズなど……、あらゆるところに憎らしいほど巧みに、視線を誘導する仕掛けが施されているのです。
 アングルによって肖像画の概念は間違いなく変えられたし、セザンヌやピカソなど後世の多くの画家に影響を与えたのも偶然ではないでしょう。
関連記事

  上手い絵と感動する絵は別物 [caption id="attachment_3635" align="aligncenter" width="728"] 『リンゴとオレンジのある静物』 1895-1900年。オルセ[…]

無料デザインテンプレートなら【エディターAC】

最新情報をチェックしよう!