マタイ受難曲を復活させた功績
メンデルスゾーンはユダヤ教から改宗した篤実なキリスト教信徒(プロテスタントの要職者)でした。
有名な銀行家だった父、名家の娘で音楽に造詣が深かった母、作曲家でピアニストだった姉……。メンデルスゾーンはその星の下に生まれるべく、最高の音楽的な環境を与えられたのです。
幼い頃から様々な宗教音楽に触れ、バッハのカンタータや声楽曲に深い愛情を寄せる、文字通り博愛主義に満ちあふれた音楽家だったのでした。
そして、一般には忘れ去られていた傑作を世に知らしめした功績もはかり知れないものがありました。
その最大の功績がバッハのマタイ受難曲を復活公演したことです。
この歴史的な傑作が陽の目を見るようになったのは、バッハの作品の偉大さも然ることながら、当時20才だったメンデルスゾーンの音楽に対する飽くなき熱意や音楽家としての良心が大きかったのも間違いありません。
当時の聴衆には難解で、はたしてどれだけの人が関心を示すか予測できない状況下で、この作品を編曲して指揮することは大変なプレッシャーだったのではないでしょうか…。(しかも公演は慈善事業だった)
でも何と言ってもメンデルスゾーンが「マタイ」の本質を理解し、心底共感していたことが作品の価値を歪みなく後世に伝える大きな要因になったのは紛れもない事実でしょう。
メンデルスゾーンの個性が最大限に発揮された傑作
メンデルスゾーンの生い立ちや育った環境からして、オラトリオを作曲するに至ったのは当然の帰結だったのでした。事実「エリヤ」、「パウロ」、「キリスト(未完)」とそれぞれ魅力あふれる作品を世に送り出しています。
そのうち「パウロ」はバッハの音楽スタイルをメンデルスゾーンの感性で描いた魅力作です。一方、「エリヤ」はメンデルスゾーンの個性があらゆる面でプラスに作用した傑作オラトリオといえるでしょう。
「エリヤ」は旧約聖書(列王記の上・下)に登場する預言者エリヤの生涯を描いたものですが、この作品ではメンデルスゾーン自身の描画を想わせる雄弁で目に見えるような美しい描写が随所に顔を覗かせます。
宗教音楽、特に聖書を題材にした音楽を作るとなると、構えたり、理屈っぽくなってしまいがちです。
しかし、メンデルスゾーンは宗教音楽としての品位を一切下げることなく、明快で親しみやすいオラトリオを作り上げたのでした。
詩的でロマンティックな情緒を随所に絡ませながらも、メンデルスゾーン持ち前の気品や実直さがあらゆる面でプラスに作用している作品なのです!
曲を聴き進めていくと、たとえ言葉の意味がわからなくとも、どのようにストーリーが展開されているのかを思い浮かべながら聴くことが出来るのが素晴らしいですね。
聴きどころ
オラトリオという響きから「難しい作品なのでは…」と敬遠される方も少なくないと思いますが、いえいえ、決してそんなことはありませんよ!
この作品の魅力を一言でいえば親しみやすく、口ずさみやすいアリアや合唱曲が全編に散りばめられていることです。
しかもエンディングに向かって曲は大いに盛り上がり、圧倒的な感動を共有できるところも大きな魅力です。オラトリオの入門曲としても「エリヤ」は間違いなくお勧めですね!
ドラマチックな曲想、崇高な祈りの感情、甘美なメロディ等々、メンデルスゾーンの音楽の魅力が余すところなく発揮された傑作中の傑作なのです。
充実した合唱ナンバー
この作品の最大の聴きどころ、魅力は何かと言われれば、合唱の素晴らしさを挙げないわけにはいかないでしょう。
「エリヤ」の合唱は厳格な古典様式、ヘンデルやバッハのようなバロック的な美観を持ちつつも、オペラ的でドラマチックな性格、ロマン派的な情緒も兼ね備えています。つまり宗教音楽でありながら多彩な表現が可能なのです。
「エリヤ」の合唱で特に印象に残るのは次の諸曲です。
第1部・第1曲 主よ助けたまえ…
ただならない嘆きと苦痛を訴える第1曲「主よ助けたまえ…」
第1部・第5曲 されど主は見たまわず
絶望の淵を彷徨いながら光の道筋を見つけようとする第5曲「されど主は見たまわず…」
第2部・第2曲 恐るるなかれ、我らの神は言い給う
行進曲風のリズムが印象的で希望と勇気に満ちた第2曲「恐るるなかれ、我らの神は言い給う」
第2部・第32曲 終りまで耐え忍ぶものは救われるべし
穏やかな聖歌を想わせる第32曲「終りまで耐え忍ぶものは救われるべし…」
第2部・第38曲 かくて預言者エリヤは火のごとく現れ…
強靱な意志と燃え上がるような情熱の吐露を感じさせる第38曲「かくて預言者エリヤは火のごとく現れ…」
フィナーレ かくて御身の光暁の如くあらわれいで
歓喜に満ちて圧倒的なクライマックスを迎えるフィナーレ「かくて御身の光暁の如くあらわれいで」
オススメ演奏
オラトリオ「エリヤ」は現在のところ、アルバムも数多く出ていますし、新譜も続々と出てきていますね!
今回は私がこれまでに聴いてきたエリヤのCDの中から特に印象に残ったアルバムをいくつかご紹介しましょう。
サヴァリッシュ盤
まず、最初に挙げたいのがヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団およびライプツィヒ放送合唱団、エリー・アメリンク(ソプラノ)、ペーター・シュライヤー(テノール)、テオ・アダム(バス)他です。
録音が1968年と古いのが難点と言えば難点ですが、演奏は全体的に表情の振り幅が大きく、オペラのようなドラマチックな緊張感と宗教的な情感が一体となった響きがこの作品にピッタリです。
曲の本質を突いたサヴァリッシュの解釈や、アダムやシュライヤーら名歌手たちの強い印象を残す歌唱は今もって最高ですし、確固とした信念に基づく合唱も素晴らしいの一言に尽きます! かつて「エリヤ」といえば、このサヴァリッシュ盤がファーストチョイスでした。
リリング盤
続いてヘルムート・リリング指揮シュトゥットガルト・バッハ・コレギウムおよびシュトゥットガルト・ゲヒンゲン聖歌隊、クリスティーネ・シェーファー(ソプラノ)、カリッシュ(テノール)、シャーデ(テノール)他(ヘンスラー)もなかなかの名演です。
サヴァリッシュ盤に比べるとあっさりした印象も受けますが、シェーファーを始めとするソリストたちがメンデルスゾーンの音楽の叙情性を自然な語り口で聴かせてくれます。
身構えずに音楽に浸かれるのがうれしいところです。リリングの指揮も堅実でありながら、本質をしっかりと捉えており、エリヤの作品としての素晴らしさが歪みなくストレートに伝わってくる感じです。
クルト・マズア指揮ライプツィヒ放送管弦楽団〔フィリップス)やミシェル・コルボ指揮リスボン・ グルベンキアン管弦楽団、合唱団〔エラート)も素晴らしいところがたくさんありますが、全体を通した感銘では前記2盤にやや劣るかもしれません。
ヘンゲルブロック盤
トーマス・ヘンゲルブロック(指揮)バルタザール・ノイマン・アンサンブル&合唱団、ゲーニア・キューマイアー(ソプラノ)、アン・ハレンベリ(アルト)、ローター・オディニウス(テノール)(ソニーミュージック)はオリジナル楽器を使用した演奏ですが、決して薄味な響きになることなく、エネルギッシュで気迫に溢れた素晴らしい演奏を繰り広げています。
楽器の音色や表情の彫りが深く、ストーリーを彷彿とさせる豊かな雰囲気を創りあげているのです!
特に合唱は指揮者の音楽作りに強く応答していて、曲想によっては陰影に満ちたドラマチックな表情や息吹が伝わってきます。
ベルニウス盤
フリーダ・ベルニウス指揮シュトゥットガルト・クラシック・フィル、シュトゥットガルト室内合唱団、レティツィア・シェレール(ソプラノ)、サラ・ウェゲナー(ソプラノ)、ルネ・モロク(アルト)、ヴェルナー・ギューラ(テノール)他(Carus)は一度聴いただけだと個性が乏しいように感じるかもしれませんし、薄味な表現に思われても決して不思議ではありません。
しかし何度聴いても飽きない、味わい深い名演奏といっていいでしょう。
合唱のスペシャリストとして名高いベルニウスの手腕はここでも冴えに冴えています。特に合唱の各パートは発声に曖昧模糊とした欠点がなく、終始、澄んだ美しいハーモニーを表出しているのです。しかもその音楽性の高さや静かさの中に漂う無限のニュアンスといったら……。聴きなれたはずの数々のナンバーからひたすら豊かで滋味あふれる音楽が泉のように湧き出してくるのです!
もちろんソリストたちも奇をてらわず、素直に心を通わせる歌唱がとても心地よく感じます。とにかく勢いや力任せになりやすいこの作品を、決して無理せず、自信とゆとりに満ちた表現を貫いているところは見事というほかありません。作品への深い解釈に裏付けられたオリジナリティとそれに見合うスキルや愛情を持って演奏するとこのような名演が誕生するといういい見本でしょう。